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「パスタヴェルディとロールプッチーニ」良い子はみんなご褒美がもらえる

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現在、赤坂ACTシアターで公演中の舞台

「良い子はみんなご褒美がもらえる」に行ってきました。

 

なぜかチケットが爆当たりしたので、4月30日と5月1日の計2回。

なんと平成最後と令和最初の橋本くん。当方戸塚担だけどいいのか。いいのか!?

 

2回言ったくせに、あらすじをほとんど忘れたのでホームページより

舞台はソビエトと思われる独裁国家の精神病院の一室。
誹謗罪でつかまった政治犯の男(アレクサンドル・イワノフ)と、自分はオーケストラを連れているという妄想に囚われた男(アレクサンドル・イワノフ)。
全く異なる状況、立場で同じ精神病院へ送り込まれた二人。
社会から完全にはみ出している人間を、社会はどう扱うのか…?

(「良い子はみんなご褒美がもらえる」公式ホームページより)

 

全体の構造として、イワノフはラジオでいうホスト役、アレクサンドルはゲストだった。そうすることでイワノフの生い立ちに一切説明がないことも納得がいった。

 

観劇直後に書いた自分のメモを見てもとても時系列に沿ってかけなさそうなので、キャラクターごとに分けて考察しようと思います。

盛大なネタバレを含みます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      イワノフについて、

生い立ちに関しては全く触れられていなかったけど、育ち方に不足はなさそうだった。圧倒的に思慮がないけど。「初めてのピアノの先生の話とか!」というところとか特に。

そのピアノの先生の時点で架空の可能性はあるけどね…

物語全体を見れば確実にイワノフだけがハッピーエンドなのかな?というかイワノフは基本ずーっとハッピーそうに見えたし、それは孤独だから(=オーケストラがいる、しかしオーケストラは見えない)なのかな、とも。はしちゃんは本当に【孤独な人間の狂気】を演じるのが上手。

イワノフがアレクサンドルに、オーケストラが聞こえるか、と尋ねるシーン(2回目)は狂気だった。完全に「自分のコントロールができてない人」だったし、そのあとアレクサンドルに「あいつら(オーケストラ)僕のいうことを聞かないんだ」というところからもそうだと思う。イワノフが自分の意図していないオーケストラの演奏を聴くことであんな風に暴力的になるとしたら、精神科医の診断になんの間違いもない。

橋本くん自身は「イワノフは普通の人間なのではないか」と言っているし、実はホームページにも、「狂人である」とは書いていなかったことに観劇後に気がついた。

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公式ホームページより

 

作品のイントロダクションにある「想像する自由」を担う存在がイワノフであると思うのだが、そこについてあまりしっくりこなかったので考えてみた。

「誰もが音楽家である」という思想と、"音楽"という芸術論を展開することは一種「危険である」とみなされ得るところであるとも言える。

 

 

 続いてアレクサンドルについて、

アレクサンドルのセリフ「今やロシアは宇宙工学と白鳥の湖がお得意の国」というもの、宇宙(天文)工学(幾何学白鳥の湖(芸術?音楽)の象徴であろうか、その後にあるユークリッドの法則然り、サーシャの学ぶ幾何学然り、全ては「1+1は絶対に2」に繋がるところであるように思えた。

パンフレットによるとトム・ストッパードがアンドレ・プレヴィンとの共作を決めた際に「トライアングルとユークリッドの定理」はもう出ていたらしい。なるほど。

物語の終わり、イワノフに導かれてアレクサンドルが指揮棒を握る。そこで初めて操った"アレクサンドルのオーケストラ"が演奏したものこそ、「良い子はみんなご褒美がもらえる(英語音名でE.G.B.D.F、イタリア語ではミ、ソ、シ、レ、ファ)。これをアレクサンドルが「良い子」になった、と捉えるべきか、「ご褒美をもらった」と考えるべきか、とても戸惑った点である。無事(?)釈放されることは、アレクサンドルが自らの思想を間違ったものであった、と認めること(=良い子になること)であり、彼自身が望んだ結末ではない。

アレクサンドルがハンストの末息絶えたのか、それとも国家の圧力に従う道を選んだのか、どちらにせよアレクサンドルにハッピーエンドが見出せなくて辛いオタク。むむ。

そしてアレクサンドルが読んでいる小説、「戦争と平和」。本当はこの本を読んでから考察したいくらいなんだけど、1000ページ超の作品を読む勇気は私にはなかった…というか「戦争と平和を読む」と言う行為自体が普通じゃない、とも受け取れる。というか精神科医的には「戦争と平和」はセーフなんだ…

とにかく、作品中ほぼずっと、アレクサンドルは本を、イワノフはトライアングルを手に持っている。文学と音楽は2人がそれぞれに自己表現するためのアイテムであり、2人のアレクサンドル・イワノフのアイデンティティとして存在していたことは間違いないだろう。

 

 

   サーシャについて、

サーシャは「オーケストラに入りたくない」という。サーシャの名前もまた「アレクサンドル・イワノフ」らしい。ややこしい。

サーシャが何より望んでいることはアレクサンドルの解放であり、オーケストラに入ってトライアングルを叩く(=社会体制に順応する)ことをも厭わないのだろう。サーシャは劇中で「パパ、言うこと聴いて、勇気出して嘘ついて」などと歌う。ここをセリフにせずに歌にしたところに、サーシャの気のためらいを感じた。

サーシャは父親に帰ってきてほしい、と思っているし、そのためならば嘘をついてほしいと思っている。一方でそれが父の人生においては「敗北の瞬間」である、ということもきちんと知っている。うう、サーシャ😭😭

アレクサンドル・イワノフの息子がアレクサンドル・イワノフであるということが、サーシャの存在を際立たせている気がする。私たちはサーシャが3人目のアレクサンドル・イワノフであるということを知るまでに2人のアレクサンドル・イワノフを十分に見ている。だからか、サーシャを2人のアレクサンドル・イワノフに当てはめてしまいたくなる。

サーシャはオーケストラでトライアングルを叩く=社会に従って生きている、一方で作中で唯一「歌」という表現を使う。歌とは"音楽(イワノフの自己表現方法)"であり、"詩(アレクサンドルがサーシャに贈ったもの)"であることも、またこのような解釈に繋げられる。

 

 

 

   教師

教師は国家体制に絶対に楯突かない、言うなればアレクサンドルの対極にいる人物。「昔は恐ろしい時代があった」と語り、サーシャを国家体制に沿って成長させようとする。意志がしっかりとしている女性ではあるし、考えの柔軟性もまるでないけど、意地悪じゃない。サーシャが医師に声を荒げるシーンでは、サーシャのことを思う優しさを持っていたように思えた。

教師はサーシャにツルゲーネフ「父と子」を読ませようとする。(結果的に幾何学の本だったけど)恥ずかしながらこちらも読んだことがないのでネット検索でざっとあらすじだけをさらった。流石に無慈悲とも取れてしまうような教師の行動。

私たちは昔から、先生に褒められることは最大のご褒美だった。

それは誰でも変わらないだろう。

教師とは、社会経験の少ない子供の小さな社会の中で絶対的な存在である。

 

 

     医師

この戯曲の面白いところは、「医師がバイオリニストである」というところだと思う。イワノフの世界外でのオーケストラとは社会主義体制の象徴である、ということは先の教師のセリフによって明確にされる。

医師は大佐という指揮者に操られた演奏者だ。

私は精神科医の仕事を詳しく知っているわけではないが、「治療は野蛮なものでした」と言われれば確かに、とは思う。しかし、イワノフの治療はさておき、実質的にはアレクサンドルの治療は絶対に精神科医の仕事ではない。

しかし、国家としては、国家反逆という大義名分をつけた上で本当に危険な思想とみなせば矯正しなければならない。本当ならアレクサンドルは30ヶ月などというものではなく、少なくともあと6ヶ月は特別精神病院にいてもおかしくない状態なので、一般精神病院では手に負えない。もっとも、アレクサンドルの"病気"を治すことなど、根本的に不可能ではあるが。

それでも医師は、大佐の指令を守るために(=指揮者の指揮通りに演奏するために)、現代の感覚で言えば"正常"な人間、アレクサンドルの治療という無理難題に躍起になる。その姿はとても滑稽だったし、結果として医師の頑張りは徒労に終わる。

 

 

 

      大佐

大佐の登場シーンはどうしても笑ってしまう。

大佐=国家くらいの概念で私は考えている。「アレクサンドルをハンストで死なせてはいけない」というのが大佐の見解である。「死なせるくらいなら釈放した方が良い」と。

大佐の勘違いは本当に勘違いだったのか?というのが疑問だ。

 

私は、「大佐は最初から勘違いをするつもりであった」のではないかと思っている。

アレクサンドルを釈放するにあたって、ただでアレクサンドルを釈放することは、「国家が正常な人間を精神病院に入れた」ことを認めることになる。そこで「あーごっめーん!同姓同名の人と間違えちゃった(テヘっ)」な感じで釈放してしまうつもりだったのでは、と。

イワノフ自身は国家に反抗する気がないので「反逆罪は良くない、と思っているフリ」をすることができる。

アレクサンドルは実際、想像上のオーケストラなど見たことがない。

つまり、同姓同名であることを利用して、大佐に釈放を決められるときには実は、アレクサンドルはイワノフとして、イワノフはアレクサンドルとして解放されたのではないのか。

 

 

 

     オーケストラの存在

ミュージカルではなく、コンサートでもないのにオーケストラピットではなくて舞台上にいるオーケストラ。

私は観劇するまでオーケストラは常にイワノフの脳内表現に使われると思っていたがそんなことはなかった。

オーケストラは場面ごとに、「イワノフの妄想の中のオーケストラ」と「イワノフには見えないオーケストラ」と「単に効果音やバックミュージックとしての演奏」の三種類があった。例えば医師がバイオリニストとして演奏をする曲は、実際に客にも見えるオーケストラ(=国家?)

バックミュージックとイワノフの妄想の区別は難しいところだけど、たまに「いやー、これはイワノフのオーケストラじゃないな」と感じる場面がある。

オーケストラで演奏することは、全体のバランスを考え、指揮者の様子を伺い、楽譜に忠実に従うことだ。それは完全に「支配」という状況に当てはまる。

ではイワノフの率いるオーケストラはどうか?彼は自分のオーケストラの演奏に満足していない。「新しいオーケストラを雇おうと本気で思っている」のだからそうであろう。また、オーケストラが「言うことをきかない」ことを憂いているところを考えれば、イワノフはたしかにオーケストラを「支配したい」と考えていることになる。その思想はアレクサンドルの思想と対立するものではないのか…そして大佐の勘違いから、そんなイワノフを釈放し得る返答をしてしまったことは何という皮肉。

作品について考えれば考えるほど、皮肉がたっぷりの一本だと言うことがわかる。

 

 

 

 

 

なるほどわからん

 

 

 

 

 

 

難しい。難しいのに後味はさほど悪くないのがすごいんだよなー!

 


見れば見るほど解釈が生まれるので、もうどうしようもないのだけれど、調べていくうちにアレクサンドル・イワノフという名前は日本でいう山田太郎とか鈴木花子みたいな、ありふれた名前であることがわかった。

 


現代の、自由になったように見えて逆に、不特定多数の人と繋がりを持てるからこそ出来上がった強い監視網のある世の中において、誰しもがオーケストラの一員であり、少しでも反抗したら、又は世間から「はみ出し者」のレッテルを貼られる。

私たちはいわばサーシャであり、いつでも他の5人の登場人物になる可能性があるのではないか。

 

 

 

 


自分の正義とはなんなのか。正義を貫くことは善か悪か。

善を働くことで「良い子」になれるのか。

今一度、考えたいと思う。